今回は鳥海山小滝番楽を継承されている吉川栄一さんにインタビューしました。文化に触れたターニングポイントや、小滝番楽への想いをお伺いします。
Q:ご経歴と現在どんな活動を行っているか教えてください。
高校卒業後、横浜の方で3年間仕事をしていました。
その後、地元に帰ってきた時にこの地域(小滝)の盆踊りを青年会がやっていたんです。それに参加して、盆踊りの中で郷土芸能をちょくちょくやっていました。
それを機にすぐ携わったわけではないですが…ある程度時間を経て参加しました。
主なきっかけになったのは、昭和55年に金峰神社で60年に一度行われる御開帳というのがあって。その時に色々な芸能や地域の文化をお披露目しようということでしたが、太鼓とか笛の担い手が居なかったんです。御開帳の半年前ごろに稽古に入ったのがきっかけでした。
現在は鳥海山小滝舞楽保存会長として、御宝頭、番楽、チョウクライロ舞、アマノハギそれから雅楽の5つの部門の継承に携わっています。番楽の部長を務めてから現役を引退しまして保存会の会長っていう形ですね。保存会の会長は4代目になります。
Q:文化に初めて触れたきっかけ・出来事について教えてください。
番楽を始めたのは、昭和54年です。当時31歳かな?元々、小さい頃からここにあった文化なので違和感もなくスッと入っていったのですが、私自身はここの集落の文化(太鼓のリズム)よりも、お袋の実家の方を聞いて覚えてきました。太鼓や笛のリズムやメロディで育ってきたんです。でも、そんなに大差がないので違和感なくスムーズに入ることができました。
Q:お母様の地域はどちらだったのですか?
同じ上郷地域の水岡という地域です。そちらでは、番楽のことを獅子舞と言っているんです。本海流獅子舞番楽といいます。うちの方もそれの系統を含んでいるのですが独自のものもあります。
本海流というのは矢島の方が主流です。それがこっちに流れてきて、母の実家の方はそちらを汲んでいます。
小滝は鳥海修験というものがありまして、小滝は修験の集落なので独自の文化を持っていたらしいんです。なので本海流とここの文化が入り混じった文化になっているようで、舞の姿も若干違いますね。
Q:地域によって、人によっても色々変わってくるんですね。
今みたいに記録するものがなかった時代ですので…。小滝番楽は500年ぐらい前なのかなって気がしています。
今使っているお面が380年ぐらい前に作られたものなんです。作られた経緯が前に使っていたものが壊れたからと残っています。そうすると500年ぐらいは遡ると思うんです。当時は全部口伝のはずなので、それを聞いて覚えていただろうと思います。
そうすると師匠の吹いている音を出せない弟子も出てきます。そうすると、どうしても変わっていっちゃいます。それはもう仕方のないことで、舞だってどうしても師匠のようにはできない人も出てきます。そうするとそれが何百年もの間に変化してしまいます。ましてや、集落同士の交流がなければ同じものを継いでも全く違うものになってしまうんです。
文化をはじめるターニングポイントとは。
Q:なぜ文化をやることにしたのかターニングポイントを教えてください。
集落の中で、御神体をお披露目する御開帳というものがありまして…この神社に関わる伝統芸能をどうしてもやらなきゃいけないという時に、太鼓と笛をやる人がいなくて…。それまで舞だけはテープを流してやってたらしいんです。
御開帳では、どうしても太鼓と笛をつけて行いたいのでなんとか手伝ってくれと言われて始めたのがきっかけですね。
Q:修験というのはどういったものですか?
鳥海修験といって、要するに山伏ですよ。ここの集落には5軒の宿坊があるんですよね。その宿坊には神主がそれぞれいて、鳥海山が神様ですから、一般の方がお参りに行くんです。その送り迎えをしたり、修験の家では修行をしたり…。
大正時代初めの頃はまだそれが残っていましたから、岩手県の方からも鳥海山参りに来ていたそうです。1軒の宿坊に大体100人くらい泊まっていたようです。
奈曽の白滝で禊をして、馬で途中まで行き頂上まで行っていたそうです。この集落はそれを生業にしてたんです。
ですから、この地域は結構違う苗字の人がたくさんいます。いろんな人が入ってきてできた集落なんでしょうね。
Q:御開帳をきっかけに、人手不足から番楽に関わるようになったとおっしゃられましたが、何か想いなどはありましたか?
自分が小さい頃からそういうものに触れて見てきたのがアイデンティティとしてあったので、あまり意識せずに入れました。孫爺さんが叩いていた太鼓が好きだったのもあります。
また、一回地域から出て、地元を見直す機会があったのでそういう文化は大切なのかなという感じはありました。
自分の体に流れているリズムっていうのかな?それが、こういうものをやらなきゃいけないんだと。ましては自分の孫爺さんがやっていたので、そういうものを見ていたので何も違和感はなかったです。
Q:横浜に出る前は、「残したい」という思いはありましたか?
全くなかったです。ただ横浜に行った時も、地域でお祭りがあると「地元にはこういうものがあったなー」と、故郷を思う気持ちはありました。
Q:保存会に携わるようになって大変だったことはありますか?
やっぱり人材の確保ですよ。前は十分、人がいたんです。
特にチョウクライロ舞の子供の舞が一番大変です。チョウクライロ舞は7つの演目のうち3つが小学生の舞なんです。しかも男の子の舞なんです。神社のところに舞台がありますが、神聖なところで女人禁制なんです。今はそんなこと言ってられないんですけど、まだそういうしきたりを守らなければいけないという意見もあるんです。
子供は6人必要なんですけど、今のところどうにか6人はいる状態ですが、後何年続くか…。どうしようかって。女の子を入れるか、地域を広げて男の子を入れるか頭を悩ませています。
一度女の子を入れようかと考えた時があったんですが、募集したけど集まりませんでした。なんとか頼んでもダメだと…何か災いがあったら大変だということでした。
Q:そのような課題に対して、対策はどのようなことを行っていますか?
地域の自治会、氏子総代、保存会で話し合うんです。いなくなったら女の子を入れましょうとか、それもいなかったら地域を広げましょうとかいろいろ話は出ています。
ただ、いついなくなるかはわからないからそろそろ結論付けなければとなっています。
Q:地域を広げるときに、どうやったら子どもは興味を持ってもらえるか未来像などはありますか?
他の集落が協力してくれるかが課題です。そちらの文化もあるわけで集落の目もありますから。
また、夜の練習になるので、子どもの送り迎えを親がしてもらえるのかも考えないといけません。
まずはお願いするしかないと思っています。最終的にいないのであれば大人がやるしかないかと思います。
これは自分だけの意見ですが…。いつも話をする時にあれはだめだこれはダメだと。じゃあ無くしてもいいんですか?という部分が根本で、無くせないんだったら、なんとかしてやらなきゃいけない。大人でも、女の子でも仕方ないという話になるんですよ。
Q:番楽の魅力は子供に伝わっているのでしょうか?
番楽をやると、小さい子どもは番楽をやっている前で真似て舞うんです。
うちに帰ってもやっているんです。ですのでやっぱり興味あるんでしょうね。見よう見まねでやるんですよ。ただ大きくなってやるかどうかは別なんですけどね。
Q:なるほど。幼い頃に触れたことがあると記憶に残りますよね。
Q:番楽の文化は何を目的に始まったのでしょうか?
そんなに詳しくはわからないですが、宿坊があったので神官なり色々いるわけですよ。それらには位があるんです。その位をもらうには色々な修行をした成果を見せなければならないんです。その中に番楽とかの舞などの演芸の部分も入っていたらしいです。
修行のなかには、各地を回ってお賽銭をもらう修行もありました。そうすると、こういう演芸を見せてお賽銭をもらったのではないかといわれています。そのための演芸じゃないかなとも思っています。またそれぞれの宿坊で修験者でなければ舞えない修験舞などもあったらしく、そういったものが位をもらうための舞なのではないかと思います。
Q:将来的に小滝番楽がどうなって欲しいですか?
今やっているものはそのまま継承していって欲しいですが、昔25演目ほどあったのが今では15演目になっています。
なので、もう少し復活出来たらいいなと思っています。小滝番楽から伝わっていると思われる地域では、今も残っている演目もあるので、そちらと連携しながら復活させたいなと思っています。
また、小さいうちから番楽をやらせたいなって思っています。 今、象潟の小学校で番楽を教えているんです。仁賀保高校でもこの地域にはこんな文化がありますよという意味で実演したりしています。中学校でもやってみたりしているので、興味を示してもらえるように出前公演などを行い、地域の文化を体で感じ取っていってもらえればいいかなと考えています。
Q:現在はどんな想いで取り組まれていますか?
保存会の人達がもう少し郷土の文化というものはどういうものかということを考えてほしいです。
意識して「こういうものはどういうことなんだろう」「この文化はなんのためにここに存在したんだろう」と意識してもらいたいです。
その意識があることによって取り組み方が全然違うと思うんですね。舞にしても笛にしても太鼓にしても。もう少し歴史を知って、この舞はどういう物語があるんだっていうようなものを勉強して、番楽をやってもらいたいなという思いがあります。
Q:吉川さんにとってにかほ市とはどんなところですか?
自分自身としては、象潟の農業基盤、田んぼの区画整備をほとんど担当し、それを定年になるまでやったので、それで象潟を良くしたかなという感じです。
それと、山から流れ来る温水路は日本で最初の温水路ですから。その温水路を昔の人が作った経緯などを調査して一つにまとめる仕事をしたので、鳥海山の恵みを受けてここに住まわせていただいてると感じています。
我々からすると鳥海山は神という感じなので、畏敬の念を抱いて住まわせていただいています。そういう風に私は思っています。
春先になると、鳥海山に雪形ができるでしょう。その雪形がね、鳥海山の神で、その恵みを麓に流してくれます。その恵みで我々は生きている…。雪形をずっと見ていると、だんだん鳥海山が体をすり減らして、我々を生かしてくれている…。そういう風に見える時があるんです。これを神様として、我々はここで暮らしています。
鳥海山小滝番楽を継承していきたいというまっすぐな想いがみえる吉川栄一さん。文化をなくさないためにどんなことが出来るのか、試行錯誤していく難しさも感じました。
吉川栄一さん、ありがとうございました!