今回は、象潟・蚶満寺の案内人と紙芝居屋をする竹内賢さんにインタビューしました!
歴史のある蚶満寺や紙芝居を文化として守り続ける想いとは?
Q:はじめに竹内さんのこれまでの経歴と現在の活動を教えてください。
1938年生まれで、今85歳です。(※取材当時2023年)
18歳の時に国家公務員の試験に合格して、郵便局員になりました。57歳まで郵便局員として勤めました。そして、町会議員になりました。町会議員になって、市会議員になって17年間、働かせていただきました。市会議員の途中から蚶満寺でボランティアをやってたんですよ。 あと、『鳥海山にブナを植える会』って知ってますか?
Q:聞いたことはあります。
鳥海山にブナを植える会の会員で、役員をやってます。それから、『朗読ボランティア泉』というものがあり、小学校などで朗読をしています。絵本を読んだり紙芝居をしてます。
蚶満寺では案内や紹介のボランティア、鳥海山にブナを植える会で朗読ボランティアの2つをやっています。そういった活動ですね。
Q:活動は週に何回かと決められた日に活動されているんでしょうか?
求められれば、という感じです。
紙芝居は、老人クラブの集まりなど、そういうところで行ってます。福祉施設でも要望があれば紙芝居をしますね。
朗読ボランティアとしてあちこち行く場合も、私は紙芝居を持って行ってやってるんですよ。今月も老人クラブの集まりで朗読ボランティアをする予定で、私は紙芝居をやります。
仁賀保高校の家庭科の授業として朗読をすることもあります。
親になる人、あるいは保育士になる人に向けて事前の勉強として朗読の実演をするんですよ。
あと、夏休みには子供会での朗読もあって、朝のラジオ体操の前に紙芝居をやっています。今年で24年になりました。

象潟に『九十九島』ってあるでしょ? 1804年6月4日の地震で、2メートル隆起して水がなくなって島が残りました。それが『九十九島』です。『本荘藩』という、 人口は20500人ぐらいの小さい藩が、「せっかく陸地になったので、島を崩して田んぼを作ろう」という計画をして作り始めましたが、蚶満寺の28代目の覚林和尚さんがそれに意を唱えました。島の景観や蚶満寺の領地を守るために、一人で意を唱えたんです。そして、和尚さんは『閑院宮(かんいんのみや)』に行って、蚶満寺を御祈願所にしたんですよ。それで島は守られましたが、和尚さんは囚われて牢で死んだという。そういう物語を紙芝居にしたりしています。
Q:紙芝居はご自分で作ってらっしゃるんですか?
いえ、熊木昭夫さん(※熊木さんのインタビュー記事はこちらhttps://tegake.com/bunka-14/)って分かりますか?にかほ市にいる熊木昭夫さんという方は、歴史も勉強されてる方で、彫刻や、居合抜き、居合道とかいろんな活動をされてる方です。 この熊木さんに切り絵をしてもらって、文章を作って、そして紙芝居にしてます。

Q:今やっている活動に触れたきっかけや出来事はありますか?
”紙芝居文化”っていうのは、皆さんは街頭紙芝居っていうのは知らなかったでしょうけど、私たちが幼い頃は、おじさんが紙芝居を自転車に乗せて、拍子木を鳴らして、5円や10円をもらって、そして飴を配って紙芝居を見せて歩いたんですよ。そういう文化が昔あったんですよ。
私たちはそういうものを見聞きしてきましたから、紙芝居っていうのはいいなと思ってたんです。絵本とは違う抜き方や読み方など、やり方があるんですよ。
街頭紙芝居をやってみたいなって思ってました。たまたま「東京で最後の紙芝居屋さんが無くなる」という新聞記事をみました。その新聞記事をみて東京に行きました。で、その紙芝居屋さんに会って、古い紙芝居を買わせてもらいました。紙芝居はやっぱりいいんですよ。楽しいです。
Q:私も小さい頃は児童館でボランティアの方がやる紙芝居を見てました。
そうですね。保育園や幼稚園では、今認定保育園ていうんですか?そういうとこでは保育士さんがやってますね。ただ、紙芝居の場合は必ず舞台を使うって言われてるんですよ。舞台っていうのはこれです。

紙芝居の専門家から何回か聞いたんですが、こういう舞台を使うって必ず言われるんですよ。「紙芝居は必ず舞台を使いなさい」という指導があるんです。
秋田県の紙芝居の勉強会に行ったり、『朗読ボランティア泉』でお声をかけてやったこともあります。
私の岩手県にいる友達から資料をもらったりして勉強していました。
Q:これまで紙芝居や蚶満寺などの文化について、何かターニングポイントや節目はありますか?
一番大きいのは妻の存在です。去年、亡くなったんですけども、 一番の理解者は妻ですね。紙芝居を買うことや集めることについてよく理解してもらってね、反対は一回もしてもらったことがなくて、一番の理解者ですよ。 たくさん集めた紙芝居は今100巻以上あります。
Q:やりたいことは全てやっていいよ、という感じでしょうか?
そうですね。別ですけど、マラソンをやってたんですよ。『青梅マラソン』って有名なものがあるでしょ。30回走りました。妻と一緒に行ってます。
あと、沖縄の『那覇のマラソン』や全国各地へ行きました。 四国にも一緒に行きました。
Q:一緒にしてくれたり反対されないということは続ける上で大きいことですよね。
Q:今の活動している中で大変だったことはありますか?
特別ないですね。なんていうかな…ガクンときたことはないんじゃないですか?
Q:すごいですね!特にないっていうのは。今は紙芝居を初めて20年ですか…?
小学校の子供会で紙芝居やるのが今年で24年目でしたからね。あんまり記録してないんですよ。ただ日記はあります。30年ぐらいずっと書いてます。
Q:朗読の時などに何か失敗してしまったことや、ここは改善していこうなど考えることはありますか?
そりゃあありますよ(笑)早く読んでしまったり、”抜き”を早くやってしまったりとか、「あっ、間違った」っていう時はあります。
Q:失敗もあるけど、毎回楽しまれているんでしょうか。
んだすな、楽しいです!
これが黄金の波に浮かぶ島々と、それから塩越のカラボっていうのと輝く水龍っていうので、これが私と熊木さんと一緒になって作ったものですね。

Q:この活動をどういう想いで取り組まれていますか?
あんまり考えたことねえな(笑)ただ、いつまで続けるかなとは思ってます。
やっぱり健康の問題がありますのでね。今、85歳でしょ。まず90歳までは続けたいなと思ってるんですよ。生きる目標っていうか、90歳まで生きたいなと思ってます。そこまでは現役でこういう活動をやって、蚶満寺のボランティアと、紙芝居をやりたいなと思ってるんですよ。
なぜ今の文化を継承して、こうずっと続けていくのかっていうところはね、 難しい質問ですね。紙芝居ってのは日本が発祥でしょ?今、先進的な世界に紙芝居を広めようという先輩の方がいるんですよ。東南アジアや韓国とか、そういうところに持っていって広めようっていう運動もあるんです。 私は直接関わっていないんですけども、せっかく日本で発祥した紙芝居文化ですから、地方の小さい場所でもやるっていうことはいいことだなと思っています。
Q:他の地区で、紙芝居の活動をされてる方っていらっしゃるんですか?
由利本荘市にグループでおりますね。それからまだあるはずです。秋田市とか…あと私の友達で、酒田市でやってる人もいます。
Q:私が幼い頃、学校で、紙芝居のグループの『そよ風』さんっていう方が来てくださりました。
ああ!まだやってますよ。
Q:やってますか?絵本とか紙芝居をやってくれたんですよ。
直接の交流はないですけど、やってるって聞きますよ。
Q:まだ元気でいらっしゃるんですね。懐かしいです。
メンバーが交代してるかもしれませんけどもね、有名ですよね。自作の紙芝居を作ってるんですよね。
Q:すごいですよね。
たしか紙芝居を自分たちで作っているグループのはずです。私は絵心がないから紙芝居を作りたい時は熊木さんにお願いしてますね。
Q:文章はどなたが作られているんでしょうか?
文章は私が作ってます。
Q:そうなんですね!

Q:最後の質問になるんですが、竹内さんにとってにかほ市とはどんなところですか?
私は率直に言って、『にかほ』になるときに反対したんです。(由利郡仁賀保町、金浦町、象潟町の)合併に反対したんですよ。当時、 象潟町の議員は11人か12人だったんですが、3人が反対しました。この『象潟』という名前がなくなるっていうことについて。
歴史的に言うと、昔は『塩越村』と言ってました。 塩越ってあるでしょ?象潟町字何町目塩越って、『塩越村』って言ったんですよ。
明治38年にね、『塩越村』を『塩越町』にしようというような、村から町に直そうというようなことが、村議会で論議されたことがあるんですよ。その時に『佐々木 小次郎』という村会議員なんですけども、『塩越』っていうんじゃなくて、『象潟』っていうと全国に知られたとこだよと。だから『塩越町』じゃなくて『象潟町』にしようというそういう議員がおったんですよ。そして、一度は塩越町になったものを一晩で象潟町に直したっていう 歴史があるんですね。これは私が昔の議会議事録を見ているんですけども、そういう歴史があるのが『象潟』なんですよ。
Q:歴史があるんですね。
【世の中は かくても経けり 象潟の 海士の苫屋を わが宿にして】これは能因法師の詠んだ歌です。後拾遺和歌集の歌で、象潟が歌枕になっているんですよ。
Q:歌枕になるくらい象潟の名前は有名なんですね。
1051年に『蚶満寺』にきて歌っています。 その能因法師が読んだ歌で、象潟っていうのは平安時代は歌を読む人を中心に憧れの地だったんですよ。
西行法師が【象潟の 桜は波に埋れて 花の上漕ぐ 海士の釣り舟】と詠んだと。そして、新古今和歌集に、藤原顕仲という人が【さすらふる わが身にしあれば 象潟や あまのとまやに あまたたび寝ぬ】という歌が載ってます。 新古今和歌集に載ってるんですよ!
Q:すごいですね、歴史があるものに載るのは。
それだけ象潟っていうのは、 有名で憧れを持つ人が多い場所だったんです。
Q:その名前をなくしてしまうのは…っていうので反対したんですね。
そう、だから私は『にかほ市』っていうようなものに対して反対したんですよ。 もう2人も反対しました。12人の議員でしたから。
Q:12人中3人が反対だと、やっぱり賛成の方が多くて…?
そうです。 今から数十年前の新聞で、「合併で無くなってしまったけれどいい名前の市町村ベストテン」を募集したことがあるんですよ。
その中で、秋田県であがったのは『角館』でした。『象潟』もそんな感じで出てるんですよ。『にかほ市』になって『象潟』っていうのが、いわゆる行政名から無くなったのが惜しいことだなと思います。
Q:なるほど、その想いっていうのがあるんですね。
Q:ずっと象潟に住んでいるんですか?
そうですね。
Q:この場所で、いいところや好きな場所などはありますか?
象潟はまず食べ物が美味しいでしょ?
Q:美味しいですね。
魚も豊富でしょ。それから山菜もすぐ採れるでしょ。それから気候が温暖でしょう。
秋田県では一番雪の少ないところで、目の前には鳥海山があって、水が豊富で…。
もう自然が至るところにある町です。そういうところを大切にしたいと思ってるんですよ。
Q:そうですよね。やっぱり案内されてる方としては、そういうところをPRしていきたいですよね。
コロナ前は、全国からたくさんおいでになりましたよね。4年前からちょっと少なくなりました。
これが私がメモを取り始めた蚶満寺の案内記録です。

これは2013年からです。10年前、こういう風にしてメモするんですよね。
何年、何月、 何日にどういう人が来たかとか、こういう風にしてメモしてるんですよ。だから、ピークの時はすごかったですよ。一年で1600人も案内しましたから。
山形県の4組の夫婦とか、東京から秋田に仕事に来て蚶満寺に来たとか、埼玉の老夫婦とかに名刺をあげたとか…こういう風にしてメモしてるんですよ。

Q:すごいですね。一つ一つ、手書きでメモされてるんですね。当時はスマホなんてそんなに使ってませんでしたもんね。
私がスマートフォンを買ったのは去年です。それまではガラケーを持ってたんですよ。あの頃(ガラケー)は一番良かったですね。

Q:今の活動を誰かに継承してもらいたいっていう気持ちはありますか?
若い人で興味がある人がいれば私は教えたいなと思います。
ただ、一過性じゃなくて続けることと、歴史ですからきちんと覚えてほしいです。私はあまり物(メモや冊子など)を見ながら案内しないので。『奥の細道』の象潟のとこは全部暗記してますし、西行法師や、藤原あきなが、菅江真澄とか、象潟関係の読んだものは全て暗記してるんですよ。
Q:さすがです。
後継者は本当に出てほしいですね。ただ、蚶満寺の場合は、お金になりませんから。(ボランティアのため)それから、やっぱり勉強が必要ですよね。だから、そういう意識がある人で、できれば若い人にやってもらいたいです。そうなればありがたいです。
文化には長い歴史があり、それを現代まで語り続け継承している人がいるからこそ、その文化が残り続けているのだなと思いました。
竹内さん、ありがとうございました!