今回は、500年以上酒造りを続け、東北で最も歴史がある酒蔵の『飛良泉(ひらいずみ)』の齋藤雅昭さんにインタビューしました。

長い歴史がある飛良泉への想いや、なぜ家業(酒蔵の飛良泉)を継承しようと思ったのか、齋藤雅昭さんのターニングポイントについて聞いてみました。

Q:ご経歴を教えてください。

東京で生まれましたが、3歳まではにかほで育ち、高校までは秋田市育ちです。

大学は東京の青山学院大学へ進学し、卒業後は総合映像プロダクションに就職。

放送部門に配属され、CS放送やケーブルテレビなどの有料多チャンネルの広告枠を販売し、スポンサーを獲得する営業職として約7年間勤めました。

2017年7月に秋田へ戻り、約9ヶ月間秋田市の総合食品研究センターの研修生として醸造について学び、2018年4月に家業である飛良泉に戻りました。

Q:現在の活動について教えてください。

今の仕事内容としては、新商品の企画、ラベルデザイン、発注酒販店や卸との営業活動、日本酒イベント出席、醸造の計画立案、実際の酒造りと多岐にわたります。何でも屋さんです。(笑)

管理者として、社員の皆さんへ動きやすい指示を出したいと思っていますが、まだまだ不慣れで迷惑をかけています。弊社だけではない話ですが、地方に点在する地酒蔵は地元売上が人口減により大幅に減っており、首都圏で売上を増やさなければなりません。

東京や大阪などに集まる良い商品と戦わなければならないのはもちろんのこと、スピード感にもついていかなければならなにので、ベースになる会社の組織作りはもちろん、様々な会社の進め方を見直す必要があると思っています。

自分が1人で一日中動いても物事は進まないので、全員にメッセージを伝えて、同じところを目指して動いてもらえるようにするためにはどうすればよいか、色々と模索しています。

Q:活動の仕方はベンチャー企業のような動き方でしょうか?

第2の創業として、自分流になるよう1回リセットしたいなと思っています。

家業は与えられたギフトのように感じます。生まれてきたらこの場所ということもあり、押しつけられたなと思う部分も正直ありますが…(笑) その運命で生まれてきた身からすると、ベンチャー企業を立ち上げる!という気持ちより、引き継ぐというイメージです。

ゼロから切り拓くというというよりは、先代からの流れを継承する。『500年続く酒造の27代目』と小さい時からからなんとなくわかっていて、「やってやろう、変えてやろう」とは思いつつも、先代の人たちが積み上げてきたものがとてつもなく膨大であり、強固です。それをいきなりゼロにすることは時間的・物理的にもできません。

ベースがきちんとあるため、明日からいきなり何かを大きく変えることできません。でも変えたい、変えなければならない…。事業継承ってとても難しいなとやっていて思います。

齋藤雅昭さん

Q:飛良泉について教えてください。

飛良泉は元々大坂の泉州が発祥の地です。その当時応仁の乱があり商売ができなくなってしまったようです。そこで新しい商売のエリアを探そうということになり、船に乗り込み、瀬戸内海を通り下関海峡を越え日本海へ。そしてにかほ市に流れ着いたという経緯があります。鳥海山を目標に錨を下ろしたのかもしれないですね。

ご先祖さんは北前船(廻船問屋)として、現在でいう商社のように、北は北海道からニシンやオットセイ、昆布などを、南からはお茶や織物を仕入れて、船で運ぶ商売をしていました。その中の副業として酒造りをにかほ市でやっていました。

Q:副業がお酒造りだったんですね。

はい、そうです。平沢の泉屋(廻船問屋の屋号)の酒で「平泉」と呼ばれたということがベースとなり、飛良泉の酒銘の由来になります。ただ『平』の『泉』だと奥州藤原氏で有名な岩手県平泉になってしまいます。
そこで江戸時代の方が飛良泉のお酒の味を褒め称えた「飛びきり良い白い水」という言葉をトンチをきかせて当て字にし、『飛良泉』になりました。

Q:飛びきり良い白い水…なるほどです。

Q:年数で言うとどのくらいですか?

僕が500年目に生まれているので、年齢を足して534年です。(※2021年取材当時)

Q:500年続いているというブランディングは、消費者に安心感を感じさせると思うんですが、いかがでしょうか?

今はそこまで歴史を商品まで落とし込めているかというと、まだまだです。500年の歴史をまだお酒の価値、商品の魅力に十分に変えられてはいないと思っています。

ただ弊社としての武器だと思っていますので、歴史をお酒の中に詰め込んで、500年が伝わるようにしたいなと思います。お酒を飲んで「うわ、これが500年か!」と感じてもらえればいいなと思うのですが笑 いずれそこまでできればいいですね。

Q:文化でもある『飛良泉』という酒蔵に触れたきっかけなどを教えてください。

飛良泉に触れた瞬間っていうのは、僕が生まれ落ちた瞬間だと僕は思っています。 文化という意味では、飛良泉が『文化』というよりは『酒を酌み交わす文化』だと思っています。酒を飲む文化に触れたのは20歳になりお酒を飲むようになってからです。飛良泉に対しての見え方がガラッと変わりました。

Q:20歳になってからお酒や飛良泉に対して意識の変化があったんですね。

そうですね。実は…飛良泉が誇りでもありながら、そんな重たい看板嫌だな…という気持ちも正直ありました。

高校生の頃、「父親は何の仕事をしているの?」と聞かれたら「会社員です」くらいにしか話していませんでした。飛良泉が自分の枕詞になってしまうんです。『飛良泉の齋藤くん』とか、『飛良泉の息子』とか、後継とか…。それがすごく嫌でした。(笑)

一個人として勝負ができなくて、飛良泉というフィルターを通してみられることがコンプレックスでした。なので、できるだけ言わないようにしていました。(笑)

隠すようにしていた時期もありましたが、お酒を飲める年齢になってからは、お酒を見直しました。例えばですけど、お酒を飲むと、普段あまり話さなかった人がすごく饒舌に話したり…盛り上がって仕事に繋がったり、お酒を飲む場で生まれるものがあると思っています。

その場を演出したり、円滑油というか、お酒がそういう使われ方をされているのを見て、飛良泉はそういったお酒を造る大事な仕事だったのかと思いました。

お酒が全てプラスの方向には働かないですけど、ストレスが溜まっている時に癒されたり、楽しかったり、ワクワクしたり…お酒はプラスな気持ちを生み出すものでもあると思ったので、そんなお酒を造る会社が実家だと思った時に、面白い職業だなと感じました。

酒造をやってみたいなって思ったのは、お酒に触れたタイミングでしたね。

Q:飛良泉でお仕事をされることになったターニングポイントを教えてください。

先ほどお話しした、生まれ落ちた運命がまず一つ。二つ目は酒の魅力に気づいたことです。この二つが組み合わさって戻ってくる決心がついたのかなって思うので、そういう意味では大学時代がターニングポイントなのかなって思っています。

Q:メディア関係の仕事から、醸造試験場を経て飛良泉に着任されたと仰ってましたが、醸造試験場は、飛良泉に戻ることを踏まえて勤務されたのでしょうか?

そうですね。実家に戻る前に自分でやりたいことをやってみたいと思い…。また飛良泉という看板がない状態で勝負できるところで挑戦したいと思い、メディア系の会社に勤めました。

とはいえ、日本酒の知識が全くない状態では飛良泉に戻ったとしてもついていけないので帰る直前には酒の研究機関である醸造試験場で研修生として、日本酒の基礎を学ばせていただきました。

Q:最初に就職した場所でも、心の片隅に戻ることを考えていたんですか?

はい、それは考えていました。ですが実際には、目の前の仕事でいっぱいいっぱいでしたね。大変な会社ではありましたが、今思えば楽しかったです…自分の提案が実際にテレビで流れたりすることも多くてやりがいを感じますし、何より自分のアイディアが売り物(お金)になるのがとても魅力的でした。



文化人になるまで。齋藤雅昭氏のターニングポイント Vol.2に続く。
続編では、なぜ継承することになったか、ターニングポイントや想いについてインタビューします。ぜひ続編もご覧ください!

この記事を書いた人

齋藤雅昭

東北で最も歴史がある酒蔵の『飛良泉(ひらいずみ)』の27代目。東京都で就職後、秋田県に戻り酒造について勉強。2018年4月に家業である飛良泉に着任。